2024年04月26日

差が縮まり身近に感

高齢の人は、自分より若い人と交流を持つと、それはそれで刺激になる。
ただし、程よい歳の開きが望ましい。
あまり離れ過ぎると相手の気持ちや感覚が理解できない。
少し前は自分はそうだった、とか、少し経つとこうなるのか、とか、参考になったり、自覚する助けになる。
さらに、高齢の人は、その人が若い頃、お近づきになりたくてもなれないほど、格段に差があっても、老化によって少し能力が低下して、以前より差が縮まり身近に感じる。
ではあるものの、プライドばかり高い、能力の低下を認めない高齢の人は、老害予備軍になる恐れがある。
そこそこ素直な、能力が低下しても、わたしよりまだまだ、うんと上だったりするため、プライドは保たれる。
しかも、惜しみなく知識や見解を示してくれる。
ただ、考えが偏っていたり、間違いを平気で押し通したりする人は、やはり老害予備軍となる。

しかしながら、正しくバランス良く老化するのは、実に難しい。
客観的に判断する力が衰えると思われる。
誰しも自分を正当化したい。

(自分とは歳の開きがある)お年寄りの人とは、脳内で自由に交流する。
そのほうが、お互いにウィンウィン。
一緒に行動するにはやはり壁がある。
体力の個人差がある。
自分の心身が無理のないように動きたいため、人に合わせるのは苦痛になる。
それに、人によって苦手な行動がマチマチ。
トイレ不安のある人や、長く歩くのが辛い人、色々。
なので、脳内で交流すると自由。
一緒に実際に同じ空間、時間で行動しなければ、感動を共有できないわけではない。

だが、体を動かさず、家から一歩も出ず、脳内だけで活動すると、リアルな瞬間的なライブ反応が得られない。
ネットの向こうで生動画で繋がるのもありだが、やはり、実物の息遣いは直接感じられず、脳内の感覚に近くなる。
コロナ真っ最中はそれしかないが。
在宅勤務ならそれでよいが。

同じウォーキングをしても、室内でランニングマシーンで歩くのと、屋外で歩くのでは目に映るものが違う。
天候、季節、空気、景色、人々、、、その時だけの状況を肌で楽しむ。
脳内だけでは、実際に直接、直に感じるものとは当然違って来る。
そのリアルな反応が嫌で、刺激が強すぎたり、不快に感じたりすると、外に出ない人もいるが。
自分をどのへんまで出すか。
プロテクターの強度はどんな程度のものか。  


Posted by dgeety at 10:13Comments(0)

2024年03月20日

い事実を反映したアクセ

閲覧数の突然の乱れは徐々におさまり、もう1日、2日ぐらいでいつものアクセス数に落ち着くことだろう。
こういう作為的なことは、自然な結果を目安にモチベーションを保つ者にとっては弊害になる。
人気を売りにしているタレントや政治家、有名人が人気のバロメーターにしているのとは違い、一般人一ブロガーにとっては作り事ではない事実を反映したアクセス数でなければ、ブログシステムへの信頼が揺らぐことになる抖音電商
なかには、一般人のちょっとしたつぶやき(例えば、「保育所、落ちた」など)が世相に火をつけ、政治まで動かす事態になることもある。
わたしのブログはそういう類のものでは決してない。

前には、コピー盗用事件も何度かあった。
ブログの著作権は、ブロガーにあるが、まるまるパクられて、見知らぬブログにアップされていることもある。
けしからん「あだ花」にはキリがない。


突然、話はワープする。
昔昔、60年以上前、わたしが幼稚園児の頃。
幼稚園でお絵描きの時間があった。
いつも必ず、Y.Hちゃんが、わたしの絵を真似した。
幼稚園児のことだから、かわいいもの。
いつもいつもだったので、わたしは少しだけ不思議だった相機鏡頭
へえ〜、今回もか、と、事実を認証するのみ。
が、別にそれ以上の深い読みやツッコミはなかった。
感情を害するわけでも、真似するなと怒るわけでも、真似されるほど良いんだと自惚れるわけでもなかった。
彼女はやがてピアノの道に進んだ。
だから、分野が違うから問題ない。

とは言え、自分で絵を思いつかないのは、独創性、オリジナリティの欠如である。
しかし、ピアノの世界でオリジナリティを生み出すのは並大抵のことではない。
まずはルールに則った演奏を基本にする。
作曲したりするのは別として、何百年も前からある曲を弾くのは練習の積み重ねしかない。
その後、道は分かれていくのだろうけれど。

無から何かを生み出すのは、エネルギーがいる。
時代が認めない、評価しないこともある。
芸術って、プロは大変。
商業化するにしてもそうだ。

こんな話、誰一人興味ないだろう。
書き手の深い考察も理解もなにもない。
上っ面だけすくって書いている。
確信しているが、観客ゼロのホームパーティは快適だ。

ホームパーティついでに。
わたしは、幼稚園の時からピアノと習字を習っていた。
ある山手高級住宅地に居を構える先生のお宅に毎週、坂道を上り階段を登って通っていた。
ピアノの先生は本職は学校の先生をしていて、アメリカンホームドラマに出てくるような背の高い優しそうな上品な夫さんがいた。
これまた絵に描いたような、上品でお利口そうな坊ちゃん(当時幼児と幼稚園児ぐらい?)が2人いた電動牙刷推薦
(わたしより、ほんの少しだけ歳下)  


Posted by dgeety at 11:25Comments(0)

2024年03月20日

入り口でやめてしまった

門を通って庭を歩き、右手側に玄関。
玄関を入って右手側には、ピアノのレッスンに使われている応接室があるthermage 效果
左手側に進むと、お習字教室に使われている和室がある。
和室の前は縁側廊下になるが和室との扉(障子)は開け放たれている。 
ここでは、ピアノの先生のお姑さんにあたる先生が何人もの生徒に習字の手ほどきをしている。
玄関を見ずに門から真っ直ぐ歩くと、右側に習字和室を見ながら突き当たりに、小ぶりのサブ玄関がある。

わたしは、ピアノの後、習字だったか、習字の後、ピアノだったか、その時々に応じてだったか忘れたが、小学6年までピアノを習っていた。
習字は大筆の後、小筆になってから小筆が嫌でやめた。
百人一首のような、おかき(米菓子)の包装紙に書かれているような、いかにもいかにも、あんな文字がさらさらと書けたら大したものなのに、、、その手前、入り口でやめてしまった。
親も辞めるにあたり、何も言わなかった。
習字と入れ替わりのようなかんじで、算盤とバレエを習いたいと親にせがんだ。
親はバレエは少し難色を示したかも知れないが(忘れた)、算盤はすんなりオッケーだった。

ピアノは、同じ応接室内で生徒はレッスンを受けている子の次の順番を待つ激光脫毛副作用
そこに、わたしの大嫌いな悪ガキとよく鉢合わせた。
わたしとは幼稚園から一緒のS.Hである。
(あえて「君」はつけてやらない)
わたしが生涯でたった一人だけいじめられたのは、このS.Hである。
幼稚園のブランコに乗っているわたしをいじめた。
そのシーンはハッキリ覚えている。
最初で最後のごんたくれ。
(医師になったらしいが)
色白で、ひょっとこみたいな顔。
この子が同級生の他の子と、わたしが練習が満足にできてないピアノレッスンをくすくす笑うのだ。
耐えられないなら、ちゃんと練習してくれば良いものを、練習しない、わたしもわたしだ。
・・・・・

本日スケジュールの時間も差し迫り、キリがないので、昔日の話はちょっとストップ。

ちなみに、
ふと思ったが、高齢の男性たちのブログや話には幼い頃の話を聞いたことがないMedilase
(一部、例外を除く)
大概は現役時代の話や、リタイアしてから頑張っていること等。
元気をいただくものの、幼い頃の時代、気に入らなかったのか、記憶にないのか、黒歴史で無かったことにしてしまいたいのか、人に話すほどのこともないのか、話しても自分は高揚しないからか、、、
いったい何故なんだろう?  


Posted by dgeety at 11:23Comments(0)